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【歴史】 奎堂文稿

奎堂文稿
  • 書名 奎堂文稿(けいどうぶんこう)
  • 巻数 3巻
  • 著者名 松本 奎堂(まつもと けいどう)/著、丹羽 花南)(にわ かなん) /校
  • 出版書写年 明治2年(1869年)序、明治4年(1871年)刊
  • 数量 3冊 
    天:36.5丁(版心:[扉0.5丁]、「奎堂遺稿巻之一題 一」・・・「奎堂遺稿巻之一題 三」,「奎堂遺稿序 一」・・・「奎堂遺稿序 三」,「奎堂遺稿巻目録 一」・・・「奎堂遺稿巻目録 三」,「奎堂遺稿巻之一 一」・・・「奎堂遺稿巻之一 二十七」),地:39丁(版心:「奎堂遺稿巻之二 一」・・・「奎堂遺稿巻之二 三十九」),人:18.5丁(版心:「奎堂遺稿巻之三 一」・・・「奎堂遺稿巻之三 十六」,「奎堂遺稿巻跋」,「奎堂遺稿巻跋」,[刊記0.5丁])
  • 書型(寸法) 半紙本(22.8×15.0cm)
  • 注記 書名は内題(巻首題)による。日本古典籍総合目録の統一書名も同じ。外題(題簽)、目録題も同じだが、序題、版心題は「奎堂遺稿」。
    著者名は日本古典籍総合目録の統一著者名による。
  • 内容 三河刈谷藩士松本奎堂(1832-1863)の遺稿集。41編の文が収められており、『日本古典文学大辞典』によれば大半は嘉永5年(1852年)から安政5年(1858年)の江戸昌平黌時代のものである。各文末及び鼇頭に諸人の評語あり。
    著者の松本奎堂は、三河刈谷藩士。諱は孟成・衡、字は士権、通称謙三郎。18歳の時、槍術稽古で左眼を失明。伊藤両村の勧めで昌平黌に学ぶ。文久3年(1863年)、大和行幸の詔に応じて天誅組を組織し大和で挙兵したが、政変により形勢急変し敗死した。
    丹羽賢(花南)(1846-1878) は、奎堂の旧門下で尾張藩士。国枝老足に漢学を学び、維新後は名古屋藩大参事等を務めた。
    大垣藩士小原鉄心(1817-1872)による跋には、文久元年に奎堂が大垣の小原のもとを訪れた際のことが記されている。
  • 序・跋・奥書等 扉「明治辛未開雕/奎堂文稿 三巻/尾張 奎文閣梓」。
    木戸孝允題字。
    序「明治己巳重陽後三日/大受居士丹羽賢撰」。
    小原鉄心跋「時文久辛酉九月十七日也 大垣 鉄心小原寛」、「明治庚午秋九月 原寛又識」。
    刊記「永楽屋正兵衛」他16軒の記載あり。 
  • 蔵書印等 各冊表紙に「愛知県教育会」の蔵書票、各冊巻頭に「翠筠書屋」の朱印。
    天・地の巻頭「太田」の朱印。  
  • 備考 版心題の「奎堂遺稿」は、明治2年に刈谷の藩校文礼館より上梓された詩文集の書名である。『日本古典文学大辞典』は、版心に「奎堂遺稿」とあるのは「あるいは詩文をあわせた遺稿集の計画があったことを示すものかもしれない」とする。 
  • 文献 『日本古典文学大辞典 第2巻』(岩波書店,1984年) 資料ID:1101359999
    『明治維新人名辞典』(吉川弘文館,1981年) 資料ID:1101353583
    『森銑三著作集 第6巻』(中央公論社,1971年) 資料ID:1101133975
    津田信吉『奎堂松本先生ニ就テ』(宇都宮万五治,1940年) 資料ID:1105064382(一部の文と跋の翻刻を収録)
    徳田武「菱田海鷗と大垣詩壇(2)」『明治大学教養論集』450号(明治大学教養論集刊行会,2010年)
  • 請求記号 Wラ/A049/マ/1-1~1-3

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