愛知県図書館 郷土資料展 (第10回) |
絵はがきに見る あいちの寺と神社 |
期間:平成18年1月18日(水)〜平成18年5月14日(日) 場所:愛知県図書館3階 郷土資料展示コーナー(観覧無料) |
前回の「絵はがきに見る あいち 海辺の風景」に続いて今回も、所蔵する絵はがきの中から県内の寺院と神社を収めたものを中心に展示をおこないます。各寺院ゆかりの人々の旧跡をたどって往時をしのび、各地の神社で行われる春祭りに、今につながる人々の思いを感じていただければ幸いです。 |
主な展示資料の紹介 1 「寺−そのゆかりの人々−」 (1)『〔尾張野間大御堂寺絵葉書〕』 (13枚のうち10枚、発行年不明、大御堂寺発行) 大御堂寺は野間大坊と呼ばれ、親しまれている知多の古刹。文治2年(1186)、平康頼がこの地で殺された源義朝のために一堂を建て、さらに政権の座についた源頼朝が、父義朝のために七堂伽藍を建てた。寺域には義朝の墓をはじめ源平ゆかりのさまざまな跡が残されている。 |
・「贈内大臣正二位源義朝公御廟」 平治の乱で平清盛に敗れ、この地に主従で落ち延びてきた源義朝は、長田忠致の裏切りにより、最期を遂げた。浴槽で襲われた義朝が「せめて木太刀にてもあらば」と悔やんだという故事にのっとり、その墓には木太刀を供える風習がある。かたわらの人物と比べると、うず高くつまれた木太刀や墓の高さなどが際立つ。 |
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・「平清盛継母池ノ禅尼古墳墓」 平治の乱で捕らえられた源頼朝は、平清盛の継母池禅尼の助命により一命を取り留め、伊豆に流された。全国を平定した後、頼朝は、父義朝の葬られているこの地を訪れたが、その折、禅尼の恩に報いるため塚を設け塔を建て、法華経を納めて供養をしたという。明治年間この塚から経壷などが出土した。 |
その他のタイトル ・「源義朝公御最期之場所御湯殿之舊蹟」 ・「白川天皇勅願所 大御堂寺本堂真景」 ・「長田山磔松古蹟」 ・「京都桃山御殿摸造客殿及御車寄門」 ・「鎌田兵衛政清及ヒ妻ノ石碑」 ・「平判官康頼公古墳墓」 ・「血池之真景源義朝公之血首ヲ洗シ故此名アリ」 ・「白河天皇勅願所右大将源頼朝公七堂伽藍再建之古建築物大門」 (注)セットのタイトルは本来の袋が残っていないため、推測によるものです。 |
(2)『地蔵院絵葉書』 (2枚 発行年不明 名古屋温故会発行 名古屋温故会絵葉書 第97輯) 名古屋市熱田区白鳥にある地蔵院は、はじめ亀命寺と号し、旗屋町にあった。その後地蔵院と名前を改め、天正4年(1576)現在地に移った。明治24年(1891)濃尾地震により一部倒壊し、昭和20年(1945)には戦災で大部分を焼失した。 |
・「國寶傳足利尊氏畫像」 国指定重要文化財「絹本著色騎馬武者像」である。足利尊氏像と伝えられてきたが、現在では、足利義尚出陣の像であると考えられている。絵はがきには土佐光信筆とあるが、これも、狩野正信が描いたものと推定されている。いずれにしても室町時代の武将の肖像画として代表的なものの一つである。
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・「大喜員豊寄進状 大喜伸尚寄進状」 大喜氏は、熱田神宮の社家の家柄。大喜員豊が享徳元年(1452)地蔵院に尾張国幡屋の屋敷地を寄進した 時の寄進状と、文安4年(1447)大喜仲尚が、同じく屋敷地を地蔵院の僧憲瑜に寄進した時の寄進状。 |
(3)『杜若名勝絵はがき』(6枚、発行年不明、無量寿寺発行) 知立市の北東「八橋」の地は、古くから文学作品などに紹介され、多くの文人も訪れている。この地にある無量寿寺は、伊勢物語にある在原業平が詠んだ「かきつばた」の歌で も知られる、かきつばたの名所である。 |
・「三河八橋 杜若名所無量壽寺古本堂ト鼇頭碑及芭蕉翁碑」
この本堂は、大正2年の火災で消失したが、茅葺の質朴な大きなお堂であった。本堂前には儒者秋本嵎夷の撰文による 「八橋紀事」(業平の故事)を刻んだ碑が、その手前には芭蕉が「かきつはた 我に発句の おもひあり」知足が「麦穂 なみよる 潤ひの里」と詠んだ連句碑がある。 |
・「賣茶翁肖像屈敬周筆 三河八橋杜若名所無量壽寺什寶」 八橋の地を訪れた文人墨客は多い。江戸時代の方巌売茶翁もその一人である。諸国遍歴の途中この地に立ち寄った彼は、無量寿寺の住職としてその再興のために力を尽くした。方巌は、福岡藩士笠原四郎衛門勝富の三男で、宝暦10年(1760)生まれ。禅門の僧であり、煎茶道でも一家を成した。紀伊徳川家との親交はよく知られている。 |
その他のタイトル ・「杜若四瓣花 三河八橋杜若名所之特色」 ・「御自作業平朝臣肖像 三河八橋無量壽寺安置」 ・「業平朝臣五輪塔 寛平四年五月十五日建立」 ・「鼇頭碑(日本三銘碑之一)」 |
(4)『三河信光明寺絵葉書』(5枚、発行年不明 名古屋温故会発行 名古屋温故会絵葉書 第109輯) 岡崎市岩津町にある信光明寺は、松平3代の岩津城主信光が先祖の菩提所として創建、寺号はその名による。武田信玄の三河侵攻により、観音堂を残して焼失したが、その後徳川家 康の命で再建された。江戸時代は幕府によりたびたび修復がなされ、堂宇を維持していたが、江戸末期の火災により、多くを失った。 |
・「松平親氏同泰親同信光墓」 徳川家康につながる将軍家直接の先祖として、松平親氏から家康の父広忠までを俗に「松平八代」という。境内に、この八代のうちの初代から三代まで、「親氏・泰親・信光」の墓がある。
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・「特別保護建造物信光明寺観音堂」 棟札によれば、室町中期文明10年(1478)の建立。浄土宗最古の堂として貴重である。ただその建築様式は、純粋な禅宗 仏殿の形式で造られている。国指定重要文化財である。 |
その他のタイトル ・「松平信光銅鐫願文」 ・「後柏原天皇綸旨」 ・「後土御門天皇綸旨」 |
2 「神社−春を迎える−」 |
・「一宮市桃花祭實況」 朝日町 神武天皇 駄志馬は、御幣をはじめ金糸・銀糸で縫いとった飾り馬具を乗せた馬が、神社まで練り込んでいくもので、町内の人々が馬につけた何本もの大綱を、かけ声をかけながら引いてゆく。 大勢の引き手の向こうに飾りを乗せた馬が見えている。
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長良町 楠公父子の訣別 多くの馬道具が戦災にあって焼失してしまったが、この飾りも今では見ることはできない。昭和11年の記録には駄志馬としてあげられている。真駄司(飾り馬具の中心部)は荒川宗太郎、附属馬具は浅井猶吉の作。
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(2)『犬山祭礼山車絵葉書』(16枚 昭和7年(1932) 伊東正進堂発行) 犬山祭は、犬山市の針綱神社の春祭りで、江戸時代から現代にまで引き継がれている。当初は、旧暦8月の祭であったが明治41年からは毎年4月7・8日に行われるようになり、 長く定まっていたが、昭和48年から4月の第一あるいは第二土・日に行われるようになった。旧城下の氏子である13町内から山車、3町内から練物が繰り出される。この13台の山車 は県指定有形民俗文化財となっており、三層の犬山型と呼ばれる山車形態をとり、「車山」と表記してヤマと呼ぶ。そのすべてにからくり人形を載せており、生の囃子により演技を披 露する。 |
・「第八番練屋町(國香欄)」 四輪・外輪、三層、最頂部に唐破風屋根、第三層にからくり人形を置くいわゆる犬山型車山。「犬山里語記」によれば練屋町の車山は天和3年(1683)に作られ、元禄13年(1700)には踊り山となったがその後踊りは止められた。寛保2年(1742)名古屋の甚四郎が文殊菩薩のからくり人形を作り、三層の車山となって今に至っている。 |
・「第二番魚屋町(三光車)」 からくりの用具に「日月」と記した垂れ軸と星人形が使用されるので三光車と呼ばれる。以前は一番最初に祭に曳き出されていたことから「真先」(まっさき)と呼ばれ、現在では一番に引き出されることはなくなったが、こちらの名称のほうが一般的である。安永3年(1774)名古屋の人形師竹田藤吉によって製作されたからくり人形が、高さの異なる六本の杭を渡って行く「乱杭渡り」は、人気のある演目の一つであり、全国的に見ても貴重なものである。 |
その他のタイトル ・「針綱神社」 ・「犬山針綱神社祭禮山車集合ノ實景」 ・「第一番枝町(遊魚神)」 ・「第三番下本町(應合子)」 ・「第四番中本町(西王母)」 ・「第五番熊野町(住吉車)」 ・「第六番新町(浦島)」 ・「第七番本町(咸英)」 ・「第九番鍛冶屋町(壽老臺)」 ・「第十番名栗町(縫英)」 ・「第十一番寺内町(老松車)」 ・「第十二番余坂町(寶袋車)」 ・「第十三番蘇登町(梅梢戯)」 ・「尾州犬山祭禮山車(夜景)」 |
(3)『西尾線一色口駅下車テンテコ祭お土産』(4枚、大正〜昭和初期 愛知電鉄発行) 西尾市熱池町八幡社で正月三日に行われる豊作を祈るお田植祭は、「テンテコ祭り」と呼ばれている。祭礼当日は大根で男根を模した厄男が、テンテコテンテコという太鼓の音にあ わせて練り歩く。祭礼当日の厄男の姿や神事の様子などを絵はがきにして、土産にしたと思われる。 |
・「(愛電沿線西尾一色口)天下の奇祭・テンテコ祭」 行列を見ている人々が和服姿で、今では一般的にかぶられることのなくなった、中折帽や鳥打帽子をかぶっている様子に、時代を感じる。左下の円内は、祭の主人公、厄男が練り歩いている様子。右下にも笹葉がついたホウキを持つ厄男の姿がある。
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その他のタイトル ・「旧正月三日愛電西尾線一色口下車テンテコ祭」 ・「(名鉄電車、西尾線一色口)天下の奇祭テンテコ祭」 ・「清和天皇悠紀斎田舊蹟傳説地八幡社御田植神事(其ノ五祝辞奏上)」
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